人に迷惑をかけるな

幾度となく言われた言葉だが、

東海道線の晒しあげTwitterについて、乙武氏のnoteを拝見したので呟きよりも私見を書きたくなった。

 

まずダイバーシティについて
私は社会的に取り組むべき事であることや、多様性の受容に関して異論があるわけでは全くないし、保護や寛容、持っているものが分け与える尊い精神について否定すべきところは全くない。

 

きっとこの部分に関して否定する人は少ないだろうし、大なり小なりどんな人も持ち合わせている部分だと思う。

 

それにも関わらずこういった障碍者に対する否定書き込みが賛否両論というくらいのそれぞれのツイートに至るには個人的及び社会的背景があるのではないかと感じている。

要するに、不幸せと感じる人が、日本には多すぎる。

 

他者への配慮が生まれるには、まず

①自分が(他者と比べて)恵まれている、幸せであるという余裕必要であるだろう。

もしくは②道徳、宗教等の教育によって根ざすものであると思う。

 

①について、正直一般的に暮らしていて自分より客観的に幸せに見える人の多いことよ。

過去、頑張ればある程度幸せになる社会であった時や、もっと不幸せな人がいると考えられた社会ではなくなり、個人の能力が重要になり、幸せな人を妬む、自分が幸せでない事を人のせいにする社会となってしまったのであろう。

みんなが配慮をされて当然と思っている所にこの不幸があるように思う。

 

②についてが今後変えうる部分だろう。

過去道徳や宗教教育が貧者においても恥の文化を作って成り立っていた時代とは変わってしまった。

衣食足りて礼節を知る、という言葉があるが現代人には衣食がたりようが礼節について知ることはない。

もう一つ重要な時間的余裕が足りなくなる層が圧倒的に多いからだ。

 

この上記2点を社会が作ってしまった結果、

配慮されていない、辛いという人を助けようとする人は様々な精神、物質的な意味で富めるものしかいない社会になったのだ。

またそんな余裕がない社会は、生きる術として一般にどんな教育をしたのか。

 

それは人に迷惑かけるな、という絶対の教えを折々にし続けたことである。

先生も、親も、警察も何もかもが人に迷惑をかけるなと言い続けた結果、本当に必要な人が社会保障を受けず、社会のお荷物扱いを受ける。

真面目に生きて、労働という社会貢献をおこなっている健常者でさえこの有様なのに、迷惑かけたのに守られようとする障碍者、十分でないとはいえ社会保障を受けている、労働、納税による社会貢献が低いという社会的にはよりお荷物である人が、かわいそうと言われて保護される事を許せと言われる事を許容できるのか。

 

私はまだ許容すべき、と言えても強要は出来ないように思う。

社会的背景を考えると、ある意味直接的な迷惑を受けてない方ですらそのレベルだと思う。

今回問題にされるべきは方法としてのネットに晒すような行為であり、間違いなく個人による断罪に他ならず、それこそ排斥されるべき行為である。

 

ただ、客観的に見てこの線路上での行動は健常者がやって許される行為ではない。

寿司ペロ同様罪深い行為であろう。

 

障碍者がやったら許そう、は社会的強者を作る行為ではないのか。特権を認めてしまう行為ではないのか。

精神に異常があれば寿司ペロは許そう、

介助人が止められないので仕方ないですよね、では全く納得が出来ない。

それは結局自分たちは迷惑をかけるな、障碍者は迷惑をかけてよい、に他ならない。

逆差別、特権階級を産んでしまう。

全ての障碍者が排斥されるべきとは全く思わない、しかし他人への迷惑を犯した方は少なくとも同じルールに則って処罰されるべきだと思うのが当たり前ではないか。

それこそが人権を認める行為なのではないだろうか。

 

真に平等な社会なのであればこれを許してはいけないと思うし、これを寛容に許せるようなゆとりと秩序を両立した社会を作ることはなかなかに難しいが、

現段階では排斥すべきとまで考えてしまう人がいる社会の方こそを変えるべきである。

迷惑をかけてしまうひとが、迷惑にならないような社会の創造を期待したい。

 

私にはその未来はまだ見えていないが。